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白木屋の日本の歴史は凄かった
下はハワイの旧白木屋のマークと戦後のお中元のポスターのマークが一緒
なのが解ります。
「白木屋」について調べてみたくなり調べたら、
いやー本当に凄い歴史のある「白木屋」でした。
この「白木屋」は、かつて東京の日本橋に存在していた百貨店だったんです。
その歴史をたどってみると…
この「白木屋」は、江戸時代(慶安)が、本当の始まりでした。
この慶安とは、1648年〜1652年です。
今から368年前が「白木屋」の始まりとは心から驚きました。
100年前でも凄いのに、300年以上も前からの歴史があったんですね。
その歴史とは、
初代の大村彦太郎可全が、江戸時代の慶安年間に、
京都のお寺の中に材木商として、「白木屋」を開いたのが始まりで、
この大村彦太郎が、江戸の繁華街で商売をする事を夢みて、
1662年に日本橋に小さな間口の小間物店として「白木屋」という名称で店を出したのが、今のハワイでの「白木屋」の原点だったんです。
(※ 小間物店;こまものみせ;化粧品や小刀などもこまごましたものを売っていた。)
凄いでしょう!!
その後も販売品目を増やしたり、店舗の数を増やしたりと、
徐々に白木屋を大きくしていった結果、
誰もが聞いたことのある、
越後谷(えちごや;現座の三越)や、
大丸屋(現在の大丸)と並んで、江戸三大呉服店の1つに数えられる百貨店に成長させたというから、これまた驚きですよね。
合わせて三越や大丸の歴史の凄さも知りました。
明治11年(1878年)には、当時の百貨店の中でも先駆け的存在で、
飲食店を導入したり、
当時座売りだったのを陳列式に変えたのも「白木屋」、
少女音楽隊を常設させたり、
日本の百貨店として初めて土足入場を始めたのも「白木屋」だったらしいです。
様々な新方式を他の百貨店に先駆けて導入した「白木屋」の凄さには、
簡単に「シロキヤ・ジャパン・ヴィレッジ・ウォーク」なんて恐れ多くて言えない気がしました。
戦前は、東京、大阪などの大都市と中心に多数の店舗を構えていたそうです。
その上、西武百貨店の創業にも関わっていたんだそうです。
その後関東大震災や第二次世界大戦など色々な苦境に耐え、閉店や開店を繰り返してきたのですが、
戦後は、「白木屋」は進駐軍によって、本店を進駐軍向け配給所などに使われたりと、接収されてからは経営がどんどん悪化していったんだそうです。
そのまま「白木屋日本橋店」の業績の低迷が続いた事から、
横井英樹による会社乗っ取り工作(株の過半数を握る)ののち、
収集策として
「東急電鉄」が白木屋の株式の過半数を取得したため、
1956年に「東急グループ」の傘下に入る事になったんだそうです。
その後1957年には「東横興業」(現在の東急ストアー)に合併して、
チェーン店の一部として継承される事になったそうです。
1958年には、「白木屋」を存続会社として東横百貨店を吸収合併!
社名を「株式会社東横」に改名した為、1958年(昭和33年)には、
法人名から「白木屋」の名称は消える事になったんですね。
1967年(昭和42年)には「白木屋日本橋店」の名称を
「東急百貨店日本橋店」に改称した事で
日本国内から白木屋を名乗る店舗は全く無くなる事となりました。
しかし1959(昭和34年)に、ハワイのアラモアナに白木屋の名前で継承をしたそうです。これですね移転前のアラモアナの白木屋!!
そっかー、ここで日本に白木屋という称号が無くなった為、
殆どの日本人は白木屋という名前を知らないんですね。
※ 居酒屋の白木屋が日本にはたくさんの店舗を展開してますが、
ここでいう白木屋とは関係がありません。
私もハワイ在住の日系の方が設立したデパートだと思ってました。
1999年(平成11年)には、白木屋の後身である、
東急百貨店の日本橋店が閉店したのはまだ記憶に有ると思います。
この東急百貨店の閉店で、
江戸時代から続いた歴史に終止符が打たれる事になりましたが、
この日本橋跡地には現代の「コレド日本橋」が開業し、
白木屋から続いた東急ストアーが、地下1階に高級スーパーマーケットの「プレッセ日本橋店」として開業したんだそうです。
本当に凄い歴史、東急百貨店がハワイの白木屋の真髄なのも驚きですよね。
東急百貨店がこれまた、江戸時代からの白木屋の真髄なのも驚きでした。
何度も言ってしまいますが、
簡単に白木屋とか「シロキヤ・ジャパン・ビレッジ・ウォーク」とか言えないですね。
それこそ、唯一江戸時代から続いた日本の歴史に関わる偉大なる白木屋が、その血縁関係の会社は日本国内にはもう存在しないけど、
このハワイのアラモアナのエヴァーウイングにはあるという事ですねぇー。
白木屋への感情が変わった1日でした。
掲載者;ハワイホノルルでコンドミニアムをお探しでしたら、ハワイコンドミニアム.com